登山者情報480号

【2000年07月22〜23日/石転ビ沢〜天狗ノ庭、遭難救助/井上邦彦調査】

22日午後、長井市内にいた私の携帯電話が鳴った。妻から「遭難が発生したとの連絡が自宅にあった」とのことである。小国警察署に電話をすると「場所は天狗ノ庭、明朝救助隊が出発の予定、詳細は不明」とのことであった。長井市での用事を早々に終わして、小国警察署に向かった。
第一報が新潟県新発田警察署から小国警察署に入ったのは14:07であるが、小国署から現地に直接連絡が取れないため、情報は断片的であった。徐々に現地の様子が明らかになってくる。16:15現在で私達に与えられた情報は次のとおりである。
「一行は東京の某トレッキング同好会の6名。福島県川入の民宿に1泊し、翌日は切合小屋に泊り、本日は梅花皮小屋を目指して縦走中の12:00頃、天狗ノ庭において67歳の男性1名が滑落した。視界は1.5mしかなく、声がするので生きていると思われる。残された5名は、御西小屋に引き返し(後日、引き返したのは3名と判明)御西小屋の管理人小椋秀晴氏からアマハムで救助要請が出された。それを受信した方が13:00頃、新発田警察署に届け出た。
御西小屋で若干の装備と協力者を得て、一行は現場に向かって移動中であり、連絡は取れない」
天狗ノ庭で滑落することは考えられないので、おそらくは天狗岳と天狗ノ庭の間の急傾斜地であろうと推測した。なんとか現地と直接連絡を取れないかと努めた結果、アマハムでコンタクトに成功した。「負傷者を発見した。頭から出血し、手足等を負傷している。稜線まで何とか上げた。ここでビバークを予定している」とのことであった。天気予報から考えて、可能なら本日中に御西小屋まで移動することを勧めた。日没が近くなりタイムリミット5分前に、県防災ヘリコプター「もがみ」の出動を要請した。「もがみ」は時間の限界まで捜索したが、雲に阻まれ、結局遭難者は「もがみ」の爆音を聞くまでにも至らなかった。21:15頃、遭難者一行が御西小屋に入る直前で無線は途切れ、以後の情報は入手できなくなった。遭難者はかろうじて歩けるらしいが、それ以上の詳しい症状は分からずじまいであった。
気象予報は「今夜は曇り、夜には雨・雷、23日は晴れ、明け方まで雨。降水確率は18:00〜00:00が50%、〜06:00が50%、〜12:00が20%、〜18:00が20%」である。
とりあえず遭難者一行は御西小屋に入ったものとして、救助方法を検討した。明日になって遭難者の様態がどのように変化しているかが、判断のポイントになるが、現在与えられた情報だけで今すぐに結論を出し、今晩中に動き出さなくてはならない。
一点目は四肢の痛みである。これは我慢してもらうしかない。幾らゆっくりであっても立って歩けるならば歩かせる。雪面に対する恐怖心をサポートし、状況によっては猿回し(短いロープで確保しながら移動する方法)を行う。当然ながら負傷者の荷物は同パーティの5人に分散して担いでもらう。しかし明朝になって、全く立てない歩けないと言うことになれば、空輸しかない。生命の危険性がなければ数日間であっても小屋に居てもらい、ひたすら天候の回復を待つことになる。飯豊連峰の全ての登山口から最も遠い御西小屋から人間を搬送する場合、担架搬送はまず考えられない。レスキュウーハーネスによる搬送も、負傷者にかなりのダメージを与えることになるし、よほどの隊員を動員しなければならない。
気になるのは二点目である。頭部損傷と言うが詳細な情報がないのである。単なる出血ならば問題はない。明朝になって、嘔吐があったり頭痛が激しい時は、脳内部損傷を疑わざろう得ない。この場合は早急に脳外科へ搬送する必要があるが、レスキューハーネスで足場の悪い山道を長時間搬送すれば、脳に継続的に衝撃を与え、最悪の状況も想定される。
雨が降らなくても稜線のみ雲がかかりヘリコプターが使えないことは良くあることである。さらに御西岳周辺は稜線の中でも比較的ガスがかかりやすいということも考慮に入れなければならない。御西小屋から、実川口・大日杉口・川入口・弥平四郎口・ダイグラ尾根・石転ビ沢のうち、どのコースを人力で降ろすのか、大いに迷う所である。気象予報から見て、天候は今晩が最悪で、以後は時間の経過と共に回復していくだろう。稜線が晴れる保証はないが、少なくとも稜線を離れ、標高1,800〜1,600mまで下れば視界を確保できる可能性は高い。県警ヘリ「月山」は経験に優れ、防災ヘリ「もがみ」は出力と装備に優れている。「もがみ」の場合は地上部隊とのコンビネーションがうまく行けば、
殆どの状況下で吊り上げ作業が可能と考えられる。
以上の事柄を総合的に加味して、下記の計画を作成し、警察署長の同意を得て、直ちに隊員の連絡確保を行った。
「@ヘリポートを特定せずに、視界と風力等の状況が確保された時点で、ヘリコプターからの吊り上げで負傷者を収容する。A負傷者の移動は自力歩行を原則とする。B一次隊は4名編成とし、明朝午前2時30分に小国警察署を出発し、石転ビ沢経由で現地に向かう。C現在、梅花皮小屋で管理人をしている関隊員を、明朝午前4時に単独で御西小屋に向かわせ、状況を把握する。D関隊員が御西小屋に到着し、自力歩行が可能かどうかを判断する。自力歩行が無理でレスキューハーネスによる搬送が可能と判断した場合は、午前8時に二次隊が小国警察署を出発する。自力歩行が可能であ
れば、二次隊は中止とする(その考えの根底には、自力で歩かせるだけ歩かせて、本当に動けなくなったら一次隊で担ぐ、天候は回復に向かうので、少なくとも石転ビ沢に入ればヘリによる収容が可能となるだろうという読みがあった)。予定時間としては、関(梅花皮小屋04:00→06:30御西小屋07:00→梅花皮小屋に向かう)、一次隊(小国警察署02:30→砂防ダム03:30→石転ビノ出合05:00→07:00梅花皮小屋で体制を整え御西小屋に向かい関と合流する)、二次隊(07:00小国警察署集合08:00→石転ビ沢経由で一次隊を追いかける)。なお、一次隊の出発を2:30としたのは、崩壊しつつある雪渓
の状況を把握し通過できる時刻を午前4時とし、地竹原通過を4時にして逆算している。
直ちに隊員に連絡するが、隊員は各自仕事を持っているので、翌日の休暇手続き等を含めての出動要請となる。その結果、一次隊は仁科・遠藤・齋藤弥助・井上の4名、二次隊は中央班から菅野・高橋弘之・吉田・渡部政信、警察官2名、飯豊班は藤田班長に4名の調達を依頼した。また本部要員を高橋副隊長等に依頼してもらうこととした。
これらの事項を1枚の紙に纏め、町民課長に渡し、全出動隊員へのFAXを頼んだ。FAXによる隊員への周知は始めての試みである。これまで隊員は登山口または現場に着いて始めて事故の内容や収容計画の全体を知らされていたのである。ともあれ、ここまでの作業を終えて、武田隊長と私は帰宅した。帰宅し夕食を摂り23:00に就寝。
22日02:00起床、登山道具箱から装備を適当に選び、小国警察署に向かう。小国警察署の前にある役場の駐車場で、車に不要と思われる装備を残し警察署に入ると、既に3人が揃っており、私も慌ててザックと出動箱を警察署のライトバンに入れる。ちょうど02:30、ライトバンは赤色回転灯を点滅させて天狗平に向かった。湯沢のゲートには、武田隊長が登山者指導を既にスタンバイしていた。彼は毎週土日の朝、登山口に立ち、登山者の装備や計画をチェックし指導しているのだ。これにより小国からの入山者(特に石転ビ沢)の事故は最小限に押さえられているのだ。全く頭の下がる思いである。
ゲートの鍵を開けて、上の砂防ダムまで車で入る。PWDはさっさとザックを担いで、ダムの階段を登っていった。パッキングを終えていない私だけが取り残された。ヘッドランプを頼りに、ザックにプラスチックブーツとアイゼン(これは石転ビ沢で人間を担ぐ時に使用する)、遭難者のためのアイゼン、様々な用具がコンパクトに詰められている私物缶、カッパ、食料、登攀用5mテープ、6mm×20mロープ、ピッケル等を放り込んで後を追った。
程なく先行の3名に追いつく。PWD・LFD・私の3名はスパイク地下足袋を履いていおり、遠藤君だけが登山靴である。案の定、遠藤君が遅れ気味になりPWDが後に付く。彦右衛門ノ平を過ぎ婆マクレに入る所で、目印のブナの大木が倒れており、様子が変わっている。
地竹沢に雪が残っていたが、雪に上がらず飛び石伝いに通過し、近大慰霊碑を過ぎて、湿地になる所から雪渓に入る。ヘッドランプで照らしてみるが、かなり薄く不安定である。一度左岸寄りに雪渓に上がり、小沢に降りて柴を掴んで再び雪渓に上がる。この先の雪渓は一見すると安定している。落合付近から右岸に移る。このあたりでようやく空が薄明るくなってきた。ヘッドランプを消した方が雪渓のルートを選択しやすい。雪渓が陥没しているらしく沢の音が次第に大きくなってくる。滝沢出合付近から亀裂が嫌らしくなり、右岸ぎりぎりに進むが、岩の上にあがってこの先を見ると、状況が大変に悪い。すかさず落合まで引き返し、今度は左岸寄りに雪渓を登る。ここでも中心部が陥没しているため傾
いた雪渓のトラバースが待っていたが、強行突破する。最後に左岸に上がり、梶川出合の崩壊川原(仮称)手前の夏道に出る。崩壊川原の雪渓も亀裂が入り傾いているのですばやく通過する。梶川と梅花皮沢本流に架かるスノーブリッジは薄いので、梶川を若干溯って飛び石伝いに渡り、雪渓の上にあがる。梶川出合から滝沢出合までの間、梅花皮沢(本流)の雪渓がズタズタに崩れている。
雪渓の末端に消え落ちるように、上流に向かって大きな泥の帯が伸びている。梶川出合上の亀裂はまだ問題ない。石転ビノ出合直下右岸側は大きく窪んでいるので、左岸側を登る。全体として梶川出合から上の雪渓は安定している。下山後に分かったことだが、石転ビノ出合右岸の遥か上部で山腹の崩壊が発生し、右岸の河岸段丘を越えて梅花皮沢(雪渓)に泥流が流れ、さらに右岸段丘のやや下流からも別な流れが合流し、梶川出合まで到達していた。土砂というよりベトベトした泥の川といった感じである。
石転ビノ出合からは、朝の弱々しい光の中で、薄い黄緑色にぼやけた状態で石転ビ沢が望めた。中ノ島(草付き)付近から上部は雲で覆われている。振り替えると、時折青空が雲の中を流れていった。
右岸の水場が露出していたので、ここで始めての休憩を取りお握りを頬張る。食事後、私が用を足している間に、LFDは寒くなったと言って一人でさっさと出掛けてしまった。そのうち追い付くだろうと、何分か遅れて私も一人で出発した。遅れて到着したPWDと遠藤君は、もう少し休んでから歩き出すとのことであった。
これも下山時に確認したことだが、登り始めてまもなく、やはり左岸のかなり上部の山肌に崩壊跡が見え、そこから大量の土砂が落下し、雪渓に堆積しさらに石転ビノ出合まで土石流の跡が続いている。
LFDは時折立ち止まっているようなので、すぐに追い付くだろうと思ったのが間違いだった。毎週のように山に登っているLFDに対し、この2ケ月の間、登っていない私はなんとしても距離が縮まらない。下を見るとかなり下方に遠藤君とPWDの姿が見える。ホン石転ビ沢はまだたっぷりと雪渓が続いていた。始めての人は、迷い込まないように注意が必要だ。この辺りで梅花皮小屋が姿を現した。しかし鞍部以外の稜線は依然として雲に覆われている。
OTJ(関氏)とPWDの交信を聞いていると、OTJは若干予定より遅れたものの、まじめに御西小屋に向かっているようである。北股沢出合直下、やや左岸側の雪渓上に樹木の付いたままの土塊が落ちていた。
PWDを経由して、桧山沢源頭、天狗岳・御西岳間のカール状地形であれば、雲が切れる可能性が高く、またそこまでは負傷者の搬送も可能であることを本部に連絡した(昔の水場なので、踏み跡もあり雪渓の斜度も緩い)。北股沢出合で2回目の休憩(食事)。北股沢にも大量の雪渓が続いており、7月下旬とは思えないほどだ。北股沢方面からの落石には今後も十分な注意が必要だろう。黒滝はまだ雪に覆われているが、右岸側に段ができているので、下降時には注意が必要だ。中ノ島(草付き)の両側に雪渓が残っているが、今後急速に薄くなってくるので早目に夏道に上がるのが無難だろう。
中ノ島(草付き)のお花畑は今ひとつと言った感じである。途中左側の水場は使用できる。中ノ島(草付き)最上部のトラバースにも雪はないが、小沢の上部には雪渓が残っているので落石を考慮し、素早く通過すべきである。水の流れる夏道を直答し草付きの広場手前で梅花皮小屋が見えてくる。広場から残雪を登っていると無線機からLFDの声が聞こえる。LFDは小屋に到着したらしい。姿も見える。
夏道を詰めて小屋前に出て、管理棟の鍵を開けて中に入ると、OTJが食べ残していった熊汁があった。それを暖めなおして腹ごしらえをしてPWDを待つ。北股岳上部に細かい雪の塊が散乱している。つい最近、雪塊が崩壊して落下した跡と思われる。
御西小屋ではなんとか負傷者を「もがみ」に収容しようと苦心惨憺している様子が無線機から聞こえてくる。雲に遮られて思うようにはいかないようだ。梅花皮小屋からは梶川尾根がはっきりと見えている。雲はそれほど厚くない筈である。
1時間ほど、小屋で休憩して、カッパの上だけを着て出発する。もしかするとこのまま大日杉方面に下山する可能性もあるので、プラスチックブーツもそのまま担いで移動を始めた。風はあるがさほどではない。視界はないが道に迷うほどではない。歩き始めてすぐ、PWDが遅れ始めた。そのまま構わずに進む。途中から遠藤君のペースが落ちてきた。遠藤君に「このまま私達と進むか、それともPWDと合流するか」と尋ねた。遠藤君は体力もあり山の技術もそこそこ齧っているが、遭難救助の修羅場に一人で放り出せるほどの実力はまだない。「頑張ります」その一言が、彼には辛い思いをさせることとなった。LFDと私で遠藤君を挟んで進む。足を少しでも止めて一息つけようとすると、すかさず「足を止
めるな!」、登りにかかってペースがダウンすると「遅い!」、平らな所になると「今のうちに早く追い付け!」と容赦なく叱咤激励が飛ぶ。
本部からは二次隊の出発をどうするか問い合わせがくるが、負傷者を大日杉方面に下ろすか、石転ビ沢を下ろすか、途中で吊り上げをするつもりなので、ヘリコプターならどちらの条件が良いか分かるだろうから、それによってどちらから二次隊を上げるかを決定することとし、暫時待機とした。
うまく行かない御西の作業に痺れを切らして、私から無線で指示を出す。登山道が新潟県側・山形県側と絶え間なく変化する稜線の登山道を歩きながら交信しているので、私と御西小屋がうまく交信できない。新潟の協力者やGZKを介しての交信である。亮平ノ池から天狗ノ庭付近は小国町中心部と交信できないので、町民課長自ら松岡に移動し無線中継も行っているようだ。
「ピッケルホルダーが二つ付いたアタックザックを準備し、カッパを使って搬送用具を作成すること。その方法はOTJが知っている。負傷者の体重を連絡するように」という私の指示に、御西小屋からOTJは現在食事中、終了後搬送用具の作成に取り掛かる。体重は75kg」との回答であった。「75kgであってもOTJなら、一般登山者と同じ時間で移動できる筈だ。雲の動きによりヘリコプターから移動の指示が出たら、すかさず行動できるように準備をし、いざという時は背負って行動すること」と指示を加えた。
体重の他に登山靴や衣類・ザック等を加えると、実質は80kg近くになり、恐らく一般登山者が担いで行動することは無理だろう。ゼンマイ採りで鍛えているOTJでなければできない芸当と思いつつ、一瞬のタイミングも逃さない万全の体制を求めた訳である。
まもなく、御西小屋から梅花皮小屋に向けて負傷者が移動を開始したことを確認したので、直ちに二次隊を石転ビ沢から上げるように本部に要請した。予定よりも御西小屋周辺でのヘリによる搬送作業の試みに時間を取ってしまった。ヘリポートを求めて、負傷者がゆっくりながら自力で移動しているという状況を考えると、レスキューハーネスによる搬送でも、症状が大事に至ることはないと判断。何としても今日中に負傷者を下山させる。そのためには歩けるだけ歩かせて、動けなくなった時から背負い搬送に切り替えることを前提とし、さらに75kgという体重は救助隊員の疲労度が大きく、一次隊の限界も早くなることを考慮しての判断である。
亮平ノ池から残雪の上を歩く部分は例年よりかなり多い。御手洗ノ池で一服し食事を摂り、さらに進む。天狗ノ庭まで行っても、雪は確かに多いものの、ルートを誤らない限り滑落するような場所はない。天狗ノ庭の巻き道から既存の登山道に下ると、再び雪の上に出る。
ここから先、夏道は隠れている。雪上を僅かに下り斜面をトラバースする。40mはあろうか、結構長く急に感じる。斜面の途中の笹尾根に夏道が出ており、さらに急な斜面を10m程トラバースすると、そこでOTJと合流した。負傷者の顔は擦過傷だらけで東部を包帯で包んでいる。ここまで何とか自分で歩いてきたようだ。
LFDやOTJにピッケルでルート工作を頼み、負傷者に持参のアイゼンを履かせようとするが、かろうじて立ってはいるものの、自由にならない様子。なんとか10本爪アイゼンを履かせ、私もカッテングに加わる。負傷者以外のメンバーにはここで待機するように指示し、負傷者をカッテングした足場を歩かせようとするが、かなり不安な様子だ。しかたなく手を握って、私が下になりトラバースを開始する。手を握っていると足場を選択できないので、スパイク地下足袋では嫌らしい部分も出てくる。むしろ1〜2m株で同時にトラバースし、落ちてきたら三点支持で止めるほうが私としては楽なのだが、やむを得ない。夏道もアイゼンのまま歩いてもらい、ルート工作を終えた隊員に、遭難パーティメンバーの確保をしながら連れて来て貰うよう指示した。
トラバースの途中で無線が入り、PWDが現在天狗ノ庭におり、その付近は雲が切れて視界が広がっているとのことである。あと15〜20分で稜線まで上がることを本部に連絡する。巻き道の取り付きでアイゼンを外してやり、ピッケルを貸してゆっくり稜線まで上がる。
無線で「雲が流れ始め、西大日岳・ダイグラ尾根上部・烏帽子岳方面が見え始めた。視界は次第に回復傾向にある。風は新潟県から山形県に吹いている。負傷者の両脇に手を当てて体を持ち上げてみたところ痛みはないと言う。さらに下部肋骨に両手で圧迫すると痛みを訴えた。」と本部に連絡をすると、すぐフライとすると言う。「吊り上げ作業は尾根上が良いか、平坦地が良いか」本部に尋ねると、「主稜線上が良い」との回答である。「天狗ノ庭は赤っぽい広場になっており、その脇の主稜線上、赤っぽい広場から約40m御西岳寄りの場所が良い。あと数分でそこに着く。発煙筒で合図をする」旨を連絡する。遭難者パーティを両側に退け、PWDにヘリの誘導を頼み、私は負傷者の側でザックの一番奥の発煙筒が入っている私物缶を探す。
視界はどんどん広がっていく。そうこうしているうちに「もがみ」の姿が見えた。PWDが合図を送っている、こちらを確認したようだ。発煙筒を諦め、風圧で飛ばないように、散らかした装備とザックを藪の中に突っ込み、ビデオカメラを出した。見ると、PWDが水平に両手を広げ、その目の前に、PWDと正面で向き合うように「もがみ」がホバーリングしている。乱気流のためか機体が多少ぶれているようだ。「もがみ」が私達の頭上に覆い被さった。瞬間、私は仰向けになってビデオカメラのスイッチを入れた。「もがみ」が頭上数mでホバーリングしているにも関わらず、風圧が全く感じられない。開いたドアから航空隊因果吊り下りてきて、浮き輪上の吊り上げ用具を負傷者の脇の下に装着し、ヘリコプターに合図を送ると、負傷者を抱きかかえるように、ヘリに吸い込まれるように収容された。「もがみ」はそのまま新潟県側に抜けて、向きを変え飛び去った。この間僅かに数十秒の出来事であった。
ヘリが飛び去って、全員集合し休憩。視界は申し分のないほどに晴れ渡り、満開のニッコウキスゲに包まれた。

梶川出合の崩壊川原(仮称) ホン石転ビ沢出合から中ノ島(草付き)
梅花皮小屋から石転ビノ出合 防災ヘリ「もがみ」が現れた
「もがみ」から下降する航空隊員 負傷者に吊り上げ用具を付ける
負傷者を抱きかかえるようにして吊り上げる 収容作業終了を報告するPWDとLFD
作業を終えて天狗ノ庭を下る 天狗ノ庭方向の登山道
亮平ノ池方向の登山道 ひたすらニッコウキスゲに包まれて
滑落事故現場を遠望する 飯豊の山並みを遠藤君に説明するPWD
シナノキンバイとコバイケイソウ ミヤマクルマバナ
烏帽子岳山頂から天狗岳までの主稜線 イイデリンドウ
北股岳と梅花皮小屋 石転ビノ出合から石転ビ沢

{コースタイムと咲いていた高山植物}
03:16上の砂防ダム発
03:58滝沢出合の上から戻る
04:11梶川出合通過
04:32〜47 石転ビノ出合で食事
05:22〜24 ホン石転ビ沢出合
05:54〜09:00 北股沢出合で食事
06:11 中ノ島(草付き)下部末端
中ノ島に咲いていた花:ショウジョウバカマ・ノウゴウイチゴ・シナノキンバイ・コバイケイソウ・ミヤマキンポウゲ・ハクサンボウフウ・モミジカラマツ
06:26 中ノ島(草付き)上部末端
ハクサンオオバコ
06:36〜07:47 梅花皮小屋
09:27 OTJと合流
梅花皮小屋〜遭難現場に咲いていた花:アオノツガザクラ・エゾイブキトラノオ・イワオウギ・イブキジャコウソウ・イワハゼ(アカモノ)・イワイチョウ・イイデリンドウ・オンタデ・ガクウラジロヨウラク・カラマツソウ・キオン・キヌガサソウ・クルマユリ・クチバシシオガマ・コヨウラクツツジ・コバイケイソウ・シラネアオイ(盛)・ショウジョウバカマ・シナノキンバイ・シロウマアサツキ・シロバナクモマニガナ・タカネアオヤギソウ・タカネマツムシソウ(蕾)・タカネナデシコ・タカネニガナ・チングルマ・チシマギキョウ・ニッコウキスゲ(盛)・ノウゴウイチゴ・ハクサンニンジン・ハクセンナズナ(終)・ハクサンフウロ・ハクサンイチゲ・ハクサンシャクナゲ・バイカオウレン・ヒナウスユキソウ・マルバコゴメグサ・マルバダケブキ・マイヅルソウ・ミヤマキンポウゲ・ミヤマコウゾリナ・ミヤマクルマバナ・ミヤマリンドウ・ミツバオウレン・モミジカラマツ・ムカゴトラノオ・ミヤマダイコンソウ(終)・ミヤマアキノキリンソウ(始)・ミヤマキタアザミ・ミヤマシシウド・ミヤマホツツジ・マルバシモツケ・ヤマハハコ・ヨツバシオガマ
12:48〜13:40 梅花皮小屋
14:47 石転ビノ出合
15:27 うまい水で休憩
16:00 上の砂防ダム着