登山者情報1120号

【2007年10月01日/遭難/井上邦彦調査】

 巡視員会議から帰宅し仮眠を取っていると、16:38枕元の携帯電話が鳴った。PWD「遭難の疑い」、HZU「分かりました、小国警察署に行きます」。
 署に着くとこれまでの状況を整理した紙を渡された。この中で気になったのが、本人が書き残した山行計画書であるが筆跡が混乱している。既に到着していたお兄さん(以下兄と記載)に、何処が原本で、何処が書き足したものなのか確認する。
 到着したTHに、私が持参した登山者カード(ポストが溢れないように、ほぼ定期的に回収をしている)と、今回警察で回収したカードの中から、本人のカードがないかを見てもらうが、見当たらない。そこで情報収集の対象になりそうな登山者のピックアップを頼む。
 兄に自己紹介をして、「これは情報戦です。むやみやたらに捜索隊を出しても見つかるものではありません。捜索依頼者の金銭的負担、捜索者の社会的負担を念頭に、情報を整理して集中的に人員などを投入するのが良いと考えます」と説明して了承を得た。
 行方不明者の登山計画書には「9/24(月)飯豊山荘ふもと、25(火)北股岳(梅花皮小屋)P174〜P177、26(水)飯豊山(飯豊山荘)、27(木)下山〜栂峰ふもとP129、28(金)栂峰〜下山〜祝瓶山ふもと、29(土)祝瓶山〜秋田P116、調子よければ(25)小西小屋に泊まり(26)下山して上記より一日早くなる」と記載されていた。これではまるで判じ物である。
 兄は登山の経験が豊富らしく、自分なりの分析を行っていた。本人は59歳、数年前から登山を始めた。山麓に停めた車に泊まり日帰りするのが主で、幕営はもとより小屋に泊まったこともなく、今回の山行のために寝袋を購入したとのことである。ピッケルは所有していない。インターネットは使用していない。24日09:00に秋田を出発したので、当日の15:00頃には天狗平に到着する筈である。25日14:45に母に対し「雨、これから行く、栂峰行かず」つまり「雨が降っていたのでこれから登る。栂峰には行かないことにする」と電話をしてきている。持っているのはボーダフォンで、山行前に母に対し「山では携帯が繋がらないので連絡はしない」と話しているとのことである。
 これで、ますます分からなくなってきた。取りあえずMXLに電話をしてみる。「25日14:45であれば、飯豊山荘は営業していない。ただ工事の関係で私達は山荘にいた。電話を借りに来た者はいない。私達に知られないようにピンク電話を使用するのは不可能ではない。」次にAJKに電話をする。「当時、天狗平ロッジは閉鎖しており、誰もいなかった」天狗平どころか国道から南に入ると全てのメーカーの携帯電話は使用できない。つまり25日14:45に彼は、天狗平ではない所から電話をしている可能性が強いと思われた。
 彼(行方不明者)の電話を考えると頭が混乱するので、当初の彼の計画を整理してみることにした。兄は本人の物という持参した東北アルペンガイドブック(山渓社)を私に示した。これを見ると、174頁は概念図、175頁からは「梅花皮小屋→飯豊山」「飯豊山→ダイグラ尾根」「交通・宿泊施設」が掲載されていた。私が注目したのは、172〜173頁に石転ビ沢が掲載されていたことである。また一緒に持参した高橋金雄氏のガイドブックには129頁に栂峰、116頁には祝瓶山が掲載されているとのことである。
 つまりPxxxとは自分が歩くコースを示していることになる。とすれば、石転ビ沢が掲載されている頁を省いているのは「ルート外」を示しているのではないか・・・しかし、ガイドブックには秋季の記載がなく、「キックステップで登れる」と記載されており、初心者は危険性を過小評価する可能性があると感じ、その部分が気になった。
 次に、25日に小西小屋(=御西小屋?)まで行けば1日短縮できるということは、稜線に2泊することが前提になる。想定されるのは、【24日天狗平に車中泊し、25日梶川尾根か丸森尾根を登って北股岳を経て梅花皮小屋泊、26日は銃走路を南下し飯豊山を経て飯豊山荘(=本山小屋?)に宿泊、27日にダイグラ尾根を下り、その日のうちに栂峰山麓まで移動する。】である。
 では25日14:45の電話は何を意味するのだろう。登山者カードを元に電話を掛けていたら、ある方が「25日に石転ビ沢に入り、雨が降ってきたので途中から戻り、17:30頃に天狗平に着いた。行方不明者の車はなかった。」と話してくれた。また別の方は「26日の朝に車はあった」とのことである。つまり、彼は何らかの理由で25日14:45には天狗平におらず、25日の夜か26日の早朝に天狗平に来て、車を置いて姿を隠したということになる。
 既に本日(9月30日)に、がっさんが捜索を行っている。ひととおりルートを探したが見つけることは出来なかったという。もし石転ビ沢なら容易に探すことができる。29日に梶川尾根を登り梅花皮小屋の小屋番をして本日に丸森尾根を降ってきたODDは、転落痕を見ていないと言っている。可能性が最も高いのは、ダイグラ尾根で転落し藪の中にいる!それなら見つからない。
 あいにく私もODDも明日午前中は所用のため動けない。PWDは県警ヘリがっさんで本山小屋に上がり、縦走路を北上して丸森尾根を下山するとの手配が済んでいる。先ほど到着したもう1人の兄が「私にダイグラ尾根を登らせてください。本山小屋で泊まります」と申し出てくれた。しかし、ダイグラは甘くはない、無線を持たない彼に1人で登って貰うのは抵抗がある。
 飯豊班長のOXKに電話をするが繋がらない。しかたない直接GCSに電話をして、明朝日帰りでダイグラ尾根を捜索すること、人選は一任することを伝え承諾を得る。これで兄がダイグラ尾根を登る必要性はなくなった。
 警察署長を囲み二人の兄も参加してもらい最終的な結論を伝える。後の段取りはTHやPWDに頼み、私は帰宅し、ホームページの表紙に情報提供依頼を掲載した。
 翌早朝、貴重な情報がメールで飛び込んできた。26日に彼は梅花皮小屋には宿泊していない。門内小屋に泊まった単独の方がいる。すぐに警察署にFAXで情報を送る。
 何故かその日は様々な業務が集中していた。バタバタと勤務前に片付けて小国署に行き、若干の情報交換をして仕事の会議に出た。
 会議を終えて、小国署に行き再度情報を整理する。ヘリが飛べないので、PWDは丸森尾根を登り頼母木小屋に向かっている。GCSは本間君を連れてダイグラ尾根を捜索している。
 ここで警察航空隊と電話で情報交換をしていたH氏が「昨日のがっさんは、行方不明者が元気でいると想定して捜索している。もし藪の中などに倒れていたら見つけられなかったろう。今日、彼らはもっと精度の高い捜索を計画している」と伝えてくれた。
 26日に門内小屋・梅花皮小屋に宿泊していないことが、複数の電話確認やメールで判明した。さらに梶川尾根・丸森尾根を通った方々からも遭難の痕跡がなかったとの情報が寄せられている。つまり彼は、26日には梶川尾根も丸森尾根も登っていない!
 ダイグラ尾根は現在捜索中である。残っているのは何処か、梅花皮沢である。つまり、温身平の砂防ダムから石転ビノ出合までの間だ。石転ビノ出合付近は人の背を越すオオイタドリで一面に覆われている。また途中にはババマクレや赤滝を始め転落しやすい所や、迷いやすい梶川出合がある。門内沢は雪渓がない現在は岸壁になっているから入らないだろう。オオイタドリの上部は川原になっていてヘリならすぐ見つかる。ガレ場で滑って雪渓の中に落ちるか、崩壊した雪渓の下敷きになっていたらヘリはなかなか探せない。
 昨日、ODDは午後からなら出動可能と言っていた。これからODDと二人で石転ビノ出合まで捜索する。それでも見つからなければ明日、二人でもう一度石転ビ沢に入り、雪渓の下をしらみつぶしに探す、これしかない。
 はやる気持ちでODDに電話を掛ける。「11時なら出発できる」との回答、よし決まった。いったん勤務先に戻り、片端から書類を片付けて(といっても判を押すだけ)自宅へ向かう。ODDから「ついでに丸森尾根の蜂もやるか」との電話がある。車に蜂の巣処理の道具も積んで警察署に向かい、湯沢ゲートの鍵を借り、一路天狗平に向かう。
 飯豊山荘前で、兄の姿が見えたので車を停めると、「見つかった!元気だ。ヘリで吊り上げ梅花皮荘に運ぶとの連絡が警察署からあった」と興奮して話しかけてきた。
 梅花皮荘に戻ると、既にパトカーが交通規制を始めていた。ほどなく防災ヘリもがみが姿を現す。着陸して救急車が近づく。隊員がザックを抱えて救急車に向かう。遭難者がゆっくり、けれどもしっかりした足取りでヘリから救急車に歩いてきた。堪らず兄が彼に抱きつく。良かった・・・。
 エンジンを止めたヘリから隊員が近づいてきた。隊長に頭を下げる。やがて、もがみは再び大空に飛び立った。
 ODDと私は、目配せをして、OXKを誘う。嫌がるOXKを無理やり連れて天狗平に戻り、三人で丸森尾根を登った。
 後日、遭難者の足取りが分かった。彼は秋田から真っ直ぐに栂峰に向かったのだ。25日14:45の電話は「雨のため栂峰を登ることは止めた。これから天狗平に向かって飯豊に登る」という意味だったのだ。
 翌26日に彼は石転ビ沢を目指した。ホン石転ビ沢近くまで登ったと思われるが、ここで崩壊中の雪渓を見て、自分の実力では無理と判断し下山を開始した。この下山で彼は大きなミスをしてしまった。彼は沢の左岸にある登山道を登り、渡渉して右岸の登山道に移った訳であるが、渡渉をしたということを意識していなかったのである。恐らくは梶川の渡渉、門内沢の渡渉、石転ビ沢の渡渉が、右岸と左岸の意識を曖昧にしてしまったのだろう。
 石転ビノ出合まで降った彼は、そのまま右岸を下ろうとしたが、当然道はない。何度も登ったり降ったりを繰り返したことだろう。彼は地図やガイドブック類は自宅や車の中に入れ、山中には携行していない。ただ彼の脳裏には「登りの時に右の沢(門内沢)に入り込んではいけない」と強く刻まれていた。従って「降りの時には左に行っては行けない」と思い込んでいた。そのうちに彼は石転ビノ出合の下流右岸に絶好の岩屋を見つけた。
 好天により川の水位は通常より遥かに少なくなっていた。そのため何時もは水流のある所なのに水際を歩くことが可能になり、出合下流の土砂崖の下に大きな石があり、そこに巨大な石が屋根のように乗っていたのだ。その中は人間が横になれる快適な場所と彼は思ったのである。しかしその場所は渇水した川の流れから10~20cmしか高くない。つまり雨が降ったならば確実に水没し、彼の身体は奔流に投げ出される場所であった。
 29日梅花皮小屋にいたODDは石転ビノ出合で何度も旋回しているヘリを視認している。遭難者はこのヘリは自分を助けに来たものと思い、岩穴から出て助けを求めた。しかしこのヘリは民間がチャーターしたものであり、何らかの調査だったのだろう、彼には全く関心を示さなかった。
 翌30日、県警ヘリがっさんが彼を捜索した。恐らくは彼の頭上を何度も旋回したことであろう。ヘリは「○○さん、あなたを探しています。おりましたら何かを振ってください」と呼びかけた。しかし前日にヘリに失望した彼は、ヘリが来ていることは分かっていても岩穴から出ようとしなかった。また川の水音が、ただでさえ聞き取りにくいヘリから発する呼びかけをかき消したであろう。
 明けて1日、再び県警ヘリがっさんが頭上に飛んできた。彼は最後のチャンスとばかり、荷物を持って岩穴から出て石転ビノ出合の上部まで移動し、あらゆる物を広げて目印とし、助けを求めたのである。
 彼は救急車で病院に運ばれたが、衰弱の程度も弱く、入院の必要なしと診断を受け、今回の遭難事案は終結した。

PS この記録を作成したHZUは、遭難者から直接の聴き取りを行っていません。HZUが入手し得た資料を基に構成しています。従って、詳細な部分ではHZUの思い込みがあるかもしれません。

梅花皮荘の駐車場 ゆっくりと着陸
着地すると航空隊員が降りてきた 救急車が近づく
ヘリから降りる準備 始めにザックを降ろす
遭難者が救急車に乗る HZUと航空隊長
手を振って飛び去る