登山者情報368号

【1998年08月15〜18日/小白布〜足ノ松尾根口/吉田アキヒロ調査】

15日 川入小白布沢ルートより入山、三国岳、切合経由、本山小屋泊
16日 本山小屋にて風雨のため停滞
17日 本山小屋、飯豊本山、御西小屋、烏帽子岳、北股岳、門内岳経由、頼母木小屋泊
18日 頼母木小屋、大石山、足の松尾根経由、胎内口に下山

15日早朝4時30分、新潟のY君が車で迎えにきた。新潟空港ICより高速に乗り、飯豊山の登山口の福島県西会津町弥平四郎を目指す。
Y君は、弥平四郎より飯豊を往復する計画だ。しかし、私とはペースが違うので山に入ったら別行動する約束になっている。(私のペースは普通なのだが、彼はコースタイムの1.5倍の時間がないと歩けない)
弥平四郎に到着し登山口の祓川までの林道を進もうとしたらゲートが閉まっている。ゲートの10メートルくらい先で林道が半分くらい崩壊している。ただ、私の目には普通乗用車なら何とか通過できそうにも見えたが。ほかの登山者が鍵を管理している家に行って鍵を開けてもらおうとしたが断られて帰ってきた。ここから入るにはこれより4キロの林道を歩かねばならない。Y君と相談し別の登山口の川入を目指した。 弥平四郎より川入に直接抜ける林道が有るのだが、こちらも通行禁止。仕方なく459号まで戻って川入を目指した。
7時46分、川入口の小白布沢林道の終点より登る登山口に着いた。 8時、登山開始。約束どおりY君とは別れ先に歩く。少し歩いてすぐ急登が始まった。20キロの荷物が背中を引っ張る。 途中水量はやや少ないが、おいしい水場が有った。9時50分、長坂道と合流する。ここから、沢山の人とすれ違うようになる。地蔵山の巻き道においしい水場が有った。水量はかなり豊富だった。 11時46分。三国岳に着く、狭い山頂を小屋が占領している感じのところだ。周囲はガスのためまったく景色が見えない。ここで、昼食にした。昼食を終え12時20分出発。本来なら景色の良い稜線歩きが楽しめるのだろうけれど、ガスのためまったく景色は見えず、視界は500メートルくらいだろうか。七森、種蒔山とピークを越え、13時42分、切合(きりあわせ)小屋に着く。当初の予定では、ここで泊まる予定だったが、時間も早いし、体力もまだ大丈夫、その上、翌日は雨の予報。がんばって本山小屋を目指すことにした。
ガスはますます濃くなり視界は100メートルくらいにまでなっていった。
姥権現というかわいい石像が有った。これは女人禁制を破って登ってきた女性がここで神の怒りに触れ石にされてしまったという、どこの山にもある伝説。御前坂付近で雨が降り出した。雨具をつけて歩き出す。視界も50メートルくらいにまでなっている。16時25分、本山小屋に着いた、テント泊りの予定だったが、雨のテントは寝られないし水を含んだテントは荷物を重くする。小屋の中を見たら余裕ではいれそうなので、小屋に泊まることにした。
「豊栄山岳会の吉田です。」と、名乗ったらそれだけで管理人の小椋さんに気に入られて、持ってきた酒とつまみを提出する条件で、早速宴会が始まった。顔ぶれは小屋の管理人と居候、それと、小椋さんの友だ。私は、酔っぱらってしまった。
16日、早朝より風雨が強くなってきた。私は風が止むのを待って行けるところまで出かけようという判断をし、小屋に停滞した。小椋さんは朝からそんなことなど気にもせず、米の水を飲んでいる。 昼頃、オンベ松尾根を登ってきた、同じ豊栄山岳会の外山さんと佐藤さんが来た。再び宴会になってしまった。結局この日の夜まで風は止まず、停滞を余儀なくされた。小屋の泊まり客のほとん
どが停滞した、というより、出かけたが歩けずに帰ってきた人が多かった。しかし、数人の人は山を下りていった。
泊まり客の中にセルラーの携帯電話を持っている人がいて、みんなが家庭や仕事先に連絡を入れた。(私は、Docomoの携帯を持っていたが役にたたなかった。)
17日、雨は降っていたが風はだいぶおさまった。ガスのための視界は500メートル。5時20分、本山小屋を後にした。 5時33分、飯豊本山山頂に着いた。私のほかは誰もいない。三角点の横にザックをおろしてその写真を撮り、早々に出発した。飯豊本山より御西小屋までの道は高原のような広い尾根道、ガスのため方向感覚がおかしくなる。6時40分、御西小屋に着いた。風雨のときの山小屋の存在はありがたい。7時5分、出発。
飯豊連峰の縦走路は風をよけるため多くは稜線より山形県側に切ってある。しかし、天狗の庭手前より、それまでの天狗の庭経由の道は立ち入り禁止になっており、縦走路は稜線上に出た。天狗の庭はかつてはきれいな湿原だったそうだが、今では赤茶けた土が露出している。稜線上の新道は切り開いたばかりなのだろう。ネマガリダケの茎をバキバキと音を立てながら歩いていった。そして、再び山形県側の山腹の道に戻った。道が二段に分かれているところは、一方がロープがはってあり入れないようになっていた。道を一本化しようとしているのだろうか。御手洗の池を過ぎた頃から雨が激しくなってきた。 烏帽子岳、梅花皮(かいらぎ)岳を通過したが、雨の中山頂の気分になんて浸っていられない、立ち休み程度で通過した。
9時58分、梅花皮(かいらぎ)小屋に着いた。この小屋は、小屋の近くまで水を引いてあり、いつでも豊富な水が得られる。ここで、昼食にすることにした。現在の小屋の隣に新しい小屋が建築中だったが、この日は悪天候のためか、工事をしていなかった。
10時50分、雨の中を出発。北股岳の登りに取り掛かる。 飯豊連峰の縦走路は、北上する場合はこの坂道が一番の急な登りだ。それ以外はそれほど苦しい登りはなく終始なだらかな稜線歩きである。11時12分、北股岳山頂に立った。試しに本山で通じなかったDocomoの携帯を掛けてみる。ここでは通じた。翌日胎内まで迎えに来てくれるはずの父に時間の打ち合わせをする。ちなみに稜線上でDocomoの携帯が通じたのは種蒔山山頂と北股岳山頂だけであった。ちなみにセルラーは稜線上ならどこでも通じるそうだ。(御西小屋、梅花皮小屋管理人よりの情報)
11時20分、北股岳を後にする。ここから先は登りよりも下りの方が多くなる。そして、道は山形県側より稜線上か新潟県側が多くなる。二重山稜のギルダ原を通過し、門内岳の山頂に立つが、ここでも雨の中なのでそのまま通過した。12時5分、門内小屋に着いた。体力と天候次第ではここで泊まろうと思っていたが、この小屋の難点は水場が遠いこと、この先の頼母木(たもぎ)小屋は小屋のすぐそばまで水を引いている。12時25分、天候は悪いがまだ歩けると判断し、頼母木小屋を目指した。 13時13分、地神山に着いたとたん雨が止んだ。そして、13時17分、地神山を後にした頃一気にガスが晴れ、目の前に雄大な飯豊連峰の姿が見えた。振り返ると飯豊本山も見える。思わず「ヤッホー」と叫んでしまった。頼母木山に着いたら草原の上で大の字になって寝てやると決心した。 13時51分、頼母木山の山頂に着いた。ここでまたガスが視界を覆ってしまった。大の字どころではない、また雨になりそうだ。
13時57分、頼母木山の山頂を後にし、今夜の宿泊地の頼母木小屋に着いたのは14時11分だった。本山小屋からここまでにすれ違った人は、玄山道分岐付近で4人、天狗の庭付近で4人、亮平の池付近で4人、その後は誰にも会わなかった。悪天候とはいえ、夏山シーズンの飯豊山にしてはとても寂しすぎる。もちろん途中立ち寄った小屋には管理人以外誰もいなかった。そして、頼母木小屋に泊まるのも私ひとりだった。 夕方ガスも晴れてきたが、曇っていたため夕日は見れなかった。そして、また夜になって雨が降り出した。
17日、朝起きたら天気は回復し、曇ってはいたが雨風ともやんでいた。 6時出発、また再びガスがかかった。視界は100メートルくらいだろう。草に付いた水のためズボンが濡れるので、雨具のズボンだけはいて歩いた。6時30分、大石山に着いた。視界はまったく無い。6時41分、飯豊の主稜に別れを告げ、足の松尾根の道を下山し始めた。はじめの頃、道はネマガリダケに覆われていて、ストックでかき分けて足の踏み場を確認しながら進んでいった。このルートは、新潟大学の研究班が要所要所に雨量観測計を設置してあり、良い目印になっている。やがて雲の下に降りてきたのか、ガスが晴れてきた。8時5分、水場に着いた。この水場は、頼母木小屋に管理人がいる間水をホースで引いてあるものだが、ホースは有ったが水は出ていなかった。途中でトラブルを起こしているのではないか。8時13分出発。
10時9分、登山口の林道に出た。ここからは林道歩きである。平日のためか工事用のダンプが時々通り過ぎる。一般車は通行禁止だ。10時57分、胎内ヒュッテに着いた。ヒュッテの鍵はかかっており中には入れなかった。11時20分、父と父の友人が2台の車で迎えに来てくれた。1台は私が乗って帰るためにおいていった。帰りに胎内グランドホテルで入浴し食事をして豊栄の自宅に帰ったのは14時だった。