飯豊連峰地名考1 2011年01月01日

 地名には、人間が自然とどのように関わってきたかを秘めた不思議な魅力がある。飯豊連峰の地名を概観すると、御手洗ノ池を境として、南北で全く異なることに気付く。即ち、南部が信仰登山の面影を強く残しているのに対し、北部はその影を殆ど感じることができないのである。
 地名は時と共に変遷することも珍しくないが、現在の地名は日本山岳会越後支部の藤島玄太郎(ペンネーム藤島玄)氏によって確立されている。
 氏は、驚くべき博学と詳細な資料、さらには独善的な見解により、その偉業を成し遂げた。飯豊連峰の地名は氏を抜きにしては考えることができない。
 そこで、先ずは氏の著作である「越後の山旅・上巻」から、地名の由来を記載している部分を抜書きする作業から入ってみたい。
 なお「☆」は抜書き、「⇒」は私なりの感想を記載してみた。

☆ オ豊ノ池は、深田一家(深田久弥)とこの道を初縦走した高校女学生の名をとった=P118
 ⇒牛ヶ岩山と御前山の間にあり、もっとも東側の小池。
☆ 切合はキリアワセで、伐開してきた道の両方が出会った意味の地名で、キリアイなど物騒な名でないし、霧合せの気象現象の地名でもない=P127
 ⇒種蒔切合・滝切合・川入切合がある。旧山都町関係者は普通にキリアイと呼んでいることが多い。
☆ 御秘所(オヒショ)=P128
 ⇒小荒井実氏はオヒソが正しいと記載している。
☆ 草履塚は・・・湿地を踏んだ泥草履を捨て、足を清めて新しい草履ばきになって、飯豊山神社の清浄な花崗岩砂礫の境内へ向かう関門=P128
☆ 御前(オンマエ)坂=P129
 ⇒ダイグラ尾根最上部にも同じ地名がある。
☆ 左下へ旧赤谷登拝路が下がっている=P130
☆ 旧赤谷道(旧赤谷登拝路)は・・・駒形山の山腹を巻く県境線に沿って・・・弘法清水の先で、玄山道と接続=P130-131
☆ 三角点から西南へ頂稜を辿るのは玄山道で、旧赤谷道と弘法清水の先で接続=P131
 ⇒飯豊鉱泉の小椋さんから「以前には三角点と駒形山を通る道はなかった。藤島氏が主稜線伝いに三角点を通るコースを作るのが良いと提唱してできた。玄(ゲン)さん(藤島氏の愛称)が提唱したルートなので、【玄さんの道】が転じて【玄山道】となった」とお聞きしたことがある。
☆ 駒形山は、桧山沢源頭に駒の雪形が出るから=P131
 ⇒小国側からは見事な白馬の雪形が見える。
☆ 一等三角点、2105mの飯豊本山は=P131
 ⇒以前、飯豊山神社に「飯豊本山はここです」と書かれた大きな看板が出ていた。三角点は五ノ王子と呼ばれていたようである。信仰登山の道は全て飯豊山神社を目指しており、三角点はダイグラ尾根から神社に行く通過点であったと思われる。
☆ 疣岩山の疣岩は・・・凝灰岩の中に、大豆そっくりの緑色凝灰岩が疣状に散点・・・道辺にいくらでも採取することができる=P139
 ⇒松平峠に至る登山道が、飯豊連峰で唯一尾根の横を斜上しているのは、途中(900m)まで鉱山へ行く道だったからである。
☆ 島は、河岸段丘の方言=P144
☆ ヨシワラ沢を渉って登れば、地図の(温泉マーク)印のある湯ノ島である・・・各所に微温湯が湧いている。地滑りで埋没した源泉・・・温泉は横に逃げて、前川に面した断崖の中腹に湯煙をあげている=P145
 ⇒私が登山を始めた頃は、トンネルはなく、急峻な川沿いの登山道を歩いた。ここは大膳ノ箱(膳は急流や滝、箱は両岸が切り立っている地形)と言われていた。アシ沢まで車道ができた時、湯ノ島小屋から先の沢の名前が一本ずれて橋に記載された。越後の山旅には「オウデ沢を渉ると、道は湯ノ島小屋の前へ導いている。湯ノ島小屋は、次のヨシワラ沢の手前にあって」とある。現在の小屋は当時の小屋と同じ場所にあるので、小屋のすぐ先の雪崩で橋と小屋が破壊された沢がヨシワラ沢である。
☆ 御幣松(オンベイマツ)尾根、次郎新道は、前川を遡行中に遭難した実川村落の猪俣次郎青年が、この伐開に先頭となって努力した記念の命名、彼は前に僧籍にあって月心と称したので、月心清水も同じくそれである=P145
 ⇒私は「オンベマツ」と発音している。ちなみに月心は僧の名前であり「ガッシン」と発音する。
☆ 文平ノ池は・・・旧制新潟高校の小林文平氏、別宮貞俊氏、沼井鉄太郎氏一行が、大正11年の夏、初めて泊場にしたので命名された=P147
 ⇒飯豊連峰で近代登山が行われ始めた当時、その殆どが新潟県人であったことに驚く。
☆ (御西小屋から)南の大日岳迄は新潟県西蒲原郡赤塚村故中原藤蔵氏が、昭和10年に長者原の渡辺善三郎父子に初めて伐開させて、当時は親子新道と呼んでいた=P147
☆ 御西岳の西鞍部は・・・「善三郎親子新道」の木標が立っていた=P158
 ⇒親子新道については峡彩山岳会の本望氏が詳細に調べている。
☆ 北股岳から北股川の合流点まで延びるオオインノ逆(サカ)峰という。オオインは大犬、狼である=P155
 ⇒逆峰とは、「逆の峰入り」つまり吉野から大峰に入り熊野に出るのではなく、反対コースを取るということから由来するらしい。飯豊川を遡る信仰登山との兼ね合いから生じた名称と考えられる。なお、信仰路は飯豊川を遡っており、このルートは信仰登山とは無関係である。
☆ 北股岳は・・・明治26年測量の20万分1地勢図に「桧山」と記載され、図上にだけ踏襲されたのを、越後側の北股岳と改めたものである=P156
 ⇒長者原方面では「イシコロビノ頭(カッチ)」と呼んでいたと聞いている。
☆ 亮平ノ池は・・・大阪の岳人井上亮平氏の泊場=P157
☆ 御手洗(ミタラシ)池・・・赤谷口からの飯豊大権現登拝者は、ここで神域境内へ入るので、斎戒沐浴して行った禊ノ池であった=P158
 ⇒この御手洗ノ池を境として、飯豊連峰の地名は南北に分かれる。
☆ 一ノ峰と二ツ峰の双耳峰を、熊狩猟師達は恵比寿峰(一ノ峰)と大黒峰(二ツ峰)とも見立てていたが、見る位置と主観によって形容が一定しないので、古くさいこの呼称は廃れ、一ノ峰が正称となった=P167
 ⇒私個人としては、恵比寿様と大黒様の帽子の形に例えた旧名がしっくりすると思うが、いかがだろう。そもそも見る位置によって違うからというのなら、山名の大部分がおかしくなる。近代登山が始まる前にこの付近を闊歩していたのは米沢の猟師であり、彼らは西俣尾根を登り稜線を越えて足ノ松尾根末端にベースキャンプを作って猟を行っていたのだから、その方面から見える形が基本で良いと思う。
☆ 藤七ノ池・・・伐開に尽くした宮久のガイド井上藤七に因む池=P167
 ⇒近代登山の開拓期は、裕福な登山者が地元の猟師等を道案内や荷運びに雇用して行われていた。このため、彼らに雇用された地元民の名前が地名として多く見られる。
☆ ギルダ原は小鞍部の草原で、山形県側の下にギルダノ池が見下ろされる。ギルダは米軍がつけた台風の名で、その台風難をここで避けたので命名されている=P168
 ⇒米国では台風に女性の名前をつける決まりであった。オ豊ノ池が日本人女性の名で、ギルダノ池が米国人女性の名であるのは、なんとなく微笑ましい。
☆ ヒドノ峰・・・ヒドは窪や溝の方言だ=P170
 ⇒飯豊連峰の主稜線に見られる二重山稜は地滑りが原因である。稜線から伸びる尾根でも、地滑りによる船窪地形が見られるが、足ノ松尾根のヒドノ峰も同様な例であろう。
☆ ナリバ峰は・・・熊狩用語の「鳴り場」(メアテ・指揮場)からきている=P172
 ⇒全体として藤島氏の地名には狩猟に因むものが少ないように感じる。これは当時の知識人の習性なのかも知れない。
☆ 十貫平・・・昔は、金鉱石を十貫匁(37.5k)の荷物にまとめて、この後の尾根を登り黒手ノ峰の歩道を金俣の村落に下った=P178
 ⇒エブリサシ岳金鉱山はゼガイ沢を僅かに登った所(P178)らしいが、私はまだ訪れたことがない。イズグチ沢のうんざりする岩道は鉱山からの荷運び道かと思ったが、そうではないようだ。
☆ カリヤス平は、標高1300mの小鞍部でヒメノガリヤスが密生した草原だが、水は得られない=P180
 ⇒確かに何処にでもあるような小鞍部にはカリヤスが生えている。会津の猟師は銃のことをカリヤスと言い、射手を配置する場所をさす。それと関係すると考えるのは深読みしすぎだろうか。
☆ 新六ノ池は・・・池の名称の新六は、前記の中村氏一行を案内した金俣村の故加藤新六の名をとったもので、はじめ鏡ヶ池と云ったという=P180
 ⇒新六ノ池のほとりに石垣がある。奇異に感じたが関川村山の会の横山征平氏によると、エブリサシ小屋ができる前には、ここに幕営していた名残であるとのことであった。
☆ 地神山は、地神の祭祈(?)があっての山名ではない。本来は南の扇ノ地紙の山名を、三角点測量の際にここへ移して、ご丁寧に誤字を当てたまでのものだ=P18
☆ 地神山は・・・地元ではシシノマナコと呼称していたのは、カモシカの頭部に似た斑雪の形が、山腹にでるからであった。測量官が無理して山名をつけるとき、隣の扇ノ地紙と間違い、ご丁寧に文字まで紙を神としたのである=P196
 ⇒最近「剣岳点の記」という映画が好評を博している。測量は大変だったろうと思うが、耳慣れない方言や不確実な文献などに悩まされて大変だったろうと思う。
☆ 扇ノ地紙は・・・梶川尾根北側の山腹に、扇ノ地紙型に残雪が残るので長者原方面の人たちに呼称された素朴な山名は捨て難い趣きがある=P182
☆ 扇ノ地紙は、北山腹の残雪に、扇ノ地紙形に黒い地肌が現れ、長者原方面の農事暦にされていたから=P198
 ⇒P182によれば地紙は残雪(白)なのに、P198では地肌(黒)となっている。見上げた感覚としては残雪であろう。残雪には縦に縞が入る。これを扇にある折り目と見るのは考え過ぎだろうか。
☆ 長者平は・・・一番大きい池が、前村長故新野三郎氏を記念した三助ノ池で、水も清らかである=P184
 ⇒東俣沢長者原沢合流点にある台地は「長者平」と呼称されている。ここには小国町泉岡集落の方が小屋を掛けてゼンマイ採りをしていた場所である。稜線の長者平から眼下に長者原が良く見える。小国町の長者原集落に起因した地名なのかも知れない。
☆ オフタガリ沢は、8月でも残雪に埋まる深い沢で、雪崩は玉川を横断して対岸へのし上がっていることがある=P193
 ⇒オフタガリ沢から出た雪崩が、玉川本流を大きくふたぐ(蓋をする)のが由来であると思われる。
☆ 丸森峰は・・・長者原から遠望すると、地神山の肩の大きい丸い鈍円頂が、上の草原と下の潅木の境目となって、黒々と見えるので丸森峰と呼称するのである=P196
 ⇒森は盛りのことかも知れない。つまり「丸く盛ったような地形」という意味で、地元では「マルモリ」と呼んでいたものを、丸森と漢字を当てたような気がする。
☆ 梶川峰の大禿ゲも、北斜面の崩壊面をさしたものである=P198
 ⇒湯沢峰と滝見場の間には、赤ハゲという地名もある。
☆ 御坪は・・・お庭の方言どおり、美しい庭園の散歩道となる=P209
 ⇒現地に行くと、「納得!」するに違いのない光景が待っている。